マイクロプロセッサは, コンピュータハードウェアの量産を初めて可能にした. その性能および売り上げは20年以上にわたって急激な成長を続けており, マイクロプロセッサを汎用部品として利用することにより, 情報機器の急激な価格低下がもたらされた.
このような急激な価格低下はソフトウェア開発では起こっていない. オリジナルと同品質のコピーが高速かつ安価に作られるという, 本来ならば優れた性質が,混乱を引き起こしたからである. このために,マイクロプロセッサでは1種類当たり100万個単位の量産は 普通に行われるが,ソフトウェアでは例外的である. また,ハードウェアでは当然かつ不可欠の基盤である部品産業は, ソフトウェアの領域では実用規模にはなっていない.
マルチメディア分野においては,上のような問題に加えて, マルチメディアデータ(素材)に関する著作権の問題点として, マルチメディアソフトウェア制作者が, すべての権利者との合意を得ることの困難さが指摘されている.
ソフトウェアの部品産業を確立し,マルチメディアの普及を促進するためには, ソフトウェア部品やマルチメディア素材を自由に供給し, その対価が適切に得られるような技術的・法的基盤が不可欠である.
超流通は,ディジタル情報の自由な流通と利用とを実現するための基盤技術であり, 1983年に森亮一(当時,筑波大学,現在,神奈川工科大学)によって発明された. 超流通は,これまで不可能と考えられていた「ソフトウェアの量産」を可能にする. ディジタル情報を「所有する」のではなく, 利用するたびに使用記録が管理され, それを回収することによって料金を徴収し収入を再分配するシステムである. これまで,パーソナルコンピュータのアプリケーションソフトウェアのための 超流通についてプロトタイプの開発などを行ってきた [1, 2, 3, 4, 5].
以下では,まず,2において超流通の概要を解説する. 3では,超流通の各方面からの評価の変遷を振返ることによって, 超流通がディジタル情報流通の基盤技術として不可欠なものであるとの認識が 定着しつつあることを示す. 4では,超流通が発明されてから現在までの超流通研究開発の 進展について紹介し,5では現在検討している 電子オブジェクトのための超流通研究の現状について簡単に述べる. 超流通に関する情報を提供するために,World-Wide Webの Superdistribution Resource Pageを運用しており,超流通に関する もっとも新しい情報は,
より入手可能である.
図1: 超流通システムの一例
超流通を実現するためには,流通させるディジタル情報に対して, 使用条件を電子的に添付する必要がある. この使用条件を「超流通ラベル」と呼ぶ. 超流通ラベルが添付されたディジタル情報を 「超流通コンテンツ」と呼ぶ.
超流通ラベルが持つべき性質として以下のものがある[6, 7].
ソフトウェア部品やマルチメディア素材としての 電子オブジェクトを組み合わせて流通させ, 利用料金を適切に課金するための基本事項として超流通ラベルが考慮されていることを (4)の性質は示している. 超流通ラベル間の依存関係を記録し課金することも, また,全く独立に課金することも可能である.
超流通コンテンツを処理する機器には, 「超流通ラベルリーダ(SDLR : Superdistribution Label Reader)」が付加される. これは,超流通ラベルの記述にしたがって, 超流通コンテンツの使用記録を管理するものである.
超流通においては, 従来の有体物の取引では不可能であったような,様々な課金の形態が可能である. 試用課金, 従量課金, 自動買い取り, 買い取り後の返金, 特別許諾, 無料だが使用状況の報告を義務づけるものなどが検討された. コンテンツの特色に応じて,単純な課金から複雑なものまで自由に 選択することができる.
また,使用料金の徴収・分配には 既存のクレジットカード決済システムを応用することによって, 導入時のコストを最小限におさえるシステムも提案されている (図1参照).
これまでに,パーソナルコンピュータのアプリケーションソフトウェアの 使用記録を管理するための二つのプロトタイプが開発されている (4参照). SDLRを実装するために 既存計算機のシリアルインタフェースを利用するものと, コプロセッサインタフェースを利用するものである.
以下では, 開発した超流通計算機のプロトタイプの動作を例に, アプリケーションソフトウェアの課金がどのように行われるかについて 説明する[3, 4, 5].
図2,3にプロトタイプの画面例を示す. 利用者は,まず,計算機にSDLRを取り付ける. 超流通計算機上でプログラムが実行されると,SDLRはプログラムに 添付された超流通ラベルをもとに使用記録を作成・管理する. 利用者はあらかじめ設定された条件にしたがって使用記録を 転送することによって使用料金が徴収される.
図2は,プロトタイプ計算機で動作している超流通ソフトウェアの 超流通ラベルを表示した例である. これは,SDLRとともに提供される超流通ユーザユーティリティによって 行われる.ここでは, エディタの料金設定の一つの例として, 時間制料金と機能別とを実現している.
使用記録の回収についても様々な方式が実現可能である. 現在稼働しているプロトタイプ計算機では,利用者のSDLRに あらかじめ使用額の上限を設定する方法を用いている. 使用額の累計がその上限に達すると,SDLRは超流通プログラ ムの実行を停止し,使用記録の転送を促す.利用者は,使用記録を転送する ことによってプログラムの使用を再開することができる. 図3にプログラムの停止画面の例を示した.
上述の例は,コンピュータプログラムの課金を示しているが, 同様のメカニズムを用いることによって,すべてのディジタル情報に対して 課金することが可能である.
ここでは,超流通に対する各方面からの評価を振返ることによって, 円滑なディジタル情報流通のためには超流通が不可欠の技術基盤であることの 認識が急速に広まってきたことを示そう.
図4: 超流通関連文献数の推移
1983年10月から,超流通に関する特許の出願と論文の発表が始まった.当時の 超流通に対する反応は無視であり,反論さえも得られなかった. 論理的には超流通が妥当であっても社会にとって必要になるとは信じられなかっ たか,あるいはもっと簡単に,そんなことができるはずがない,と人々もほと んどのコンピュータ専門家も考えたようである.もちろん,多くの人々は, 超流通の存在を知らなかったと思われる.
1990年前後になって米国において超流通が高く評価されるようになった.
1989年米国BYTE誌1月号pp.343-351は特集企画で人工知能,IC,高級言語,UNIX とC,のそれぞれの創始者であるMinsky,Kilby,Hopper,Ritchie,に続けて超 流通のMoriを挙げた[8].
1990年の米国BYTE誌9月号は,15周年記念の特集で,パーソナルコンピューティ ングに最も影響力がある世界の63人を選び,表紙にその名前,テーマ,所属を 挙げた. 森と超流通がそれに選ばれた[9].
1992年の``Dr. Dobb's Journal''誌10月号pp.44-48に,OOPS (Object Oriented Programming System)の仕掛人の一人であるBrad Coxが書いた論文の表題は ``Superdistribution and Electronic Objects''であった.彼は超流通を彼自 身のテーマより前において彼の評価を示し, 超流通を ``Revolutionary Approach'' であると述べている[10].
また,Coxは1996年に, ``Superdistibution-Objects as Property on the Electronic Frontier-''と 題する書籍を出版し,超流通が重要な基盤技術であるとの評価を維持している [11].
上述の米国での評価に先駆けて, 1987年4月1日,日本電子工業振興協会(以下,JEIDA)に ソフトウェア超流通技術専門委員会の前身である 「マイクロコンピュータソフトウェア基盤技術専門委員会 (通称,SSS委員会,後にソフトウェア超流通技術専門委員会)」が設けられた.
1988年2月には,この委員会からの報告として 「ソフトウェア流通の問題点と対策」が 刊行され[12],その後,毎年, ソフトウェア超流通技術報告がまとめられている.
1993年後半になって, マルチメディア分野で ソフトウェアの権利処理の困難さが顕在化し始め, 超流通ならば電子技術によって解決できるであろうこと, そして他に解決方法は知られていないことの認識が急速に広まった.
その一つの現れとして, 1993年から超流通関連出版物が急増している. 図4は, 超流通に関する論文・解説記事,超流通を引用した出版物の 年毎の数をグラフにしたものである.以下のような分類を 採用した.
米国Wierd誌は,まず, 1994年9月号にBrad Coxによる ``Superdistribution''を掲載し [13], さらに,1995年6月号には,``Reality Check''と題する記事において, 以下の5つの技術の可能性について評価を行っている[14].
Novell Inc.,Object Management Group Inc., Microsoft Corporationなどの6人の専門家の意見を 総合的に判断した結果として,ソフトウェア超流通がもっとも有望であり, 「専門家の大多数が,ソフトウェア超流通に必要な ハードウェアがこの10年のうちにパーソナルコンピュータの 標準になると考えている」と述べた.
日本国内では, 日経エレクトロニクス誌が, 1994年11月21日号において「マルチメディアの著作権問題を技術で打開」 と題する特集を掲載した[15]. その後半pp.84-88は, オーディオ・ビジュアル機器メーカ, コンピュータ・ソフトウェア, LSIメーカなどの技術者による座談会であり, 「超流通は技術的に可能であり,導入すれば, ソフトウェアメーカだけでなくハードウェアメーカにも 見返りがある」と結論した.
1994年9月28日,超流通が歴史的必然であると主張した論文 [6]は,情報処理学会情報メディア研究会の最優秀論文と して1994年度の山下記念研究賞を受けた.
1994年9月21日に開催された電子情報通信学会の情報セキュリティ研究会は「超 流通および関連する応用分野」と題したものであった.IBM,茨城大学,神奈川 工科大学,筑波技術短期大学,日本電気(2件),富士通(2件),北海道大学(2件) 発表があった.企業の超流通への取り組みが公表されたのはこれが最初であ る.
1996年2月号の情報処理学会誌は, 「マルチメディア社会をめぐる法律問題」を特集し, 電子技術的解決法として超流通の解説記事を掲載した[7].
また,1996年9月には,電子情報通信学会ソサイエティ大会において, 超流通シンポジウムの開催が予定されている.
マルチメディア,インターネットの急速な普及によって, 旧来の知的財産権に関する法律の不備が指摘されるようになったが, 知的財産法の専門家も超流通技術を視野に入れた法整備を議論するようになった. 伊勢呂裕史[16], 田村善之[17], 名和小太郎[18], 中山信弘[19] らが超流通について積極的に言及している.
1995年になって「超流通を目指す」ことを明言した情報提供システムが発表された. 富士通のMediaShuttle,IBMのinfoMarketである.
MediaShuttleについては,
を,また,infoMarketについては, をそれぞれ参照されたい.
図5: プロトタイプIの外観
1983年に森亮一が「超流通」を発明した. 当時の名前は「ソフトウェア・サービス・システム (SSS)」であった. これは,Water Service System (水道) にならったものである. ディジタル情報流通のための電子技術の必要性についての一般の認識は低かったので, 革命的な印象を与える「超流通」という 名称より穏当であったかも知れない.
ソフトウェア・サービス・システムの満たすべき条件として, 以下の9項目があげられた[1].
上述のJEIDAの委員会報告「ソフトウェア流通の問題点と対策」[12]の 序文の中で,「超流通」という呼び名が用いられ, それが「超市場」と「超信頼性」をもたらすことが述べられた. これ以前にも,委員会の議論等では「超流通」が用いられたが, 印刷された形で残っているものとしては,この報告書が最初である.
図6: 3次元ICを利用したディジタル保護容器
1986年には,田代秀一(現在,電子技術総合研究所)を中心に, 超流通のためのプロトタイプ I が開発された[2]. これは,PC-9801のシリアルポートにSDLRを接続し, 使用記録を管理するものである. シリアル接続のためオーバヘッドは大きいが,超流通の実現可能性を明確にした. プロトタイプIの外観を図5に示す.
1988年には, 3次元ICによる保護容器(図6)が森亮一によって 発明された[20]. これは,強い物理的防御, すなわち,暗号の鍵を知らない限りその保護容器を設計・製作した人々自身が 攻撃しても破れない程度の防御を持つ情報の容器である. 保護容器は超流通において重要な役割を果たすが, それ以外の広い分野に応用される可能性を持つ.
1989年には, 超流通実用化を意識したプロトタイプ II が, 筆者を中心として開発された[3, 4, 5]. これは,SDLRを実装するために既存計算機のコプロセッサ・インタフェースを 利用したものであり,以下のような特長を持つ.
図7: プロトタイプIIの外観
同時に,筆者によって,システム全体の見直しも行なわれ, 既存のクレジットカード決済システムを応用することによって, 導入時のコストを最小限におさえるシステムが提案された (図1参照). それまでは,超流通の実現のためには,決済センタと呼ばれる, おおよそ銀行システムと同程度のものが必要であると考えられていたが, この提案によって,様々な規模と種類の超流通システムが 大きな初期投資を必要とせず実現される可能性があることが示された.
また,超流通においては, 従来の有体物の取引では不可能であったような,様々な課金の形態が可能であり, その可能性が検討された[21]. これらは,植木伸一(現在,ソニー),大瀧保広(現在,茨城大学)を 中心としてまとめられたもので, 超流通で提供される主な課金システムとして以下のようなものが 検討された.
1990年になって, コンピュータプログラム以外のディジタル情報の取り扱いについても 具体的な検討が始まり, 筆者を中心に, ディジタル・オーディオのための超流通システムが設計され, JEIDA委員会の報告書としてまとめられた[22, 23].
1993年頃から,CD-ROMとパスワードを利用したソフトウェア流通システムが 実用化され始めた.これらのシステムは, 超流通への第ゼロ世代のシステムとも考えられている.
また,1994年頃から,我々のグループ以外からも 超流通に関する研究成果について発表されるようになった [24, 25, 26, 27, 28]. 中でも,富士通は,IBM PC用のISAバスに接続する形の SDLRのプロトタイプを開発するなど積極的に進めている.
オブジェクト指向に基づくソフトウェア再利用技術は, ソフトウェア開発コストを大幅に削減すると考えられてきたが, 期待ほどの効果を上げていないのが現状である. これは,再利用を促進するための技術的基盤が欠如しているため, 再利用の対象が主としてソースコードになり, 知的財産権上の問題が発生しないような 小規模なグループでしか共有できなかったことによる[29, 30].
オブジェクト単位の課金を実現するための機能を 既存のオブジェクト指向言語環境に付加することにより, 電子オブジェクトが広く流通されるような技術基盤を検討する.
ここでは,ソフトウェアの部品化を進め,また, マルチメディアにおける権利処理を円滑に行うことを目的とした, 「電子オブジェクト課金のための超流通モデル」について 簡単に述べる.
アプリケーションソフトウェアのための超流通は, ソフトウェア量産による収益の増大をもたらす. これに対して,電子オブジェクトのための超流通は, ソフトウェアの開発費の劇的な低下をもたらすだろう.
また, メーカおよび個人が様々なソフトウェア部品や アプリケーションソフトウェア製品を自由に提供し, 収益を得られる 「超流通ソフトウェア部品コミュニティ(図9)」 が可能になると考えている.
図9: 超流通ソフトウェア部品コミュニティ
すでに述べたように, 超流通を実現するためには,流通させるディジタル情報に, 超流通ラベルを添付する必要がある. 電子オブジェクトを組み合わせて, ソフトウェア部品やマルチメディア素材として流通させる場合に, 超流通ラベルが利用料金を課金するための基本となる. また,ネットワーク上に分散されたオブジェクト間のハイパーリンクを 適切に処理するメカニズムが必要である.
電子オブジェクトの超流通は以下のような性質を満たすものとする.
SDLRにオブジェクトの生成を管理し記録する機能を実装することができれば, 5.1で述べたようなモデルを実現することができる. さらに,オブジェクトの実行制御機能により, コンテンツ提供者が,より自由な価格設定を行なうことが可能となる.
SDLRをソフトウェアでエミュレートすることによって, 課金機能と実行制御機能を提供するプロトタイプを開発中である. 既存のオブジェクト指向言語にSDLRとの通信機能を付加することによって, オブジェクト単位での使用記録の管理が可能となる予定である.
本稿の草稿を丁寧に読んで有益なコメントを下さった 神奈川工科大学 森亮一先生,茨城大学 大瀧保広先生に 深謝いたします.
筆者の知り得るすべての超流通関連出版物のリストを で公開しているので,あわせて参照されたい.